地元探訪記 Vol.111
『厚東立熊の弾薬庫』
宇部丸山ダムにある史跡案内
宇部丸山ダム湖の北側に立熊へ抜ける古道があります。私が初めてここを訪れて道沿いにある横穴に出会ったのは十数年前でした。その後ダムの駐車場に設置された史跡マップで、これが大量の弾薬を分散保存するために掘られた横穴だったことが分かりました。
現地案内標識【A】
弾薬庫跡標識柱【B】
大元となった弾薬庫は、立熊の北側の県道沿いにありました。戦局が悪化した昭和18年、旧陸軍航空廠により弾薬庫建設が計画されました。この地が選定されたのは、山陽本線から近いことと敵機の攻撃を受けづらい地形が理由でした。寄宿舎や管理棟も含む大規模なもので、建設予定地にかかる民家や墓地は強制的に移転させられました。厚東駅から引き込み線を敷設して弾薬庫に運ぶ計画でしたが、事態は急を要しておりそれらの完成を待たずに大阪陸軍航空廠よりおびただしい弾薬が搬入され始めました。
空襲が頻繁になると、敵機が弾薬庫を狙うことが予想されました。そこで本来の弾薬庫から離れた場所に多くの横穴を掘って分散保管されたのです。やがて弾薬輸送の引き込み線の完成を待たずに日本は終戦を迎えます。弾薬は進駐軍により宇部港沖などに投棄され、建屋は解体され戦災復興の資材として搬出されたため当時の建物は何も残っていません。広大な弾薬庫跡地も今では静かな田園地帯に戻り、人目につかない場所に当時の横穴が眠っているだけです。
入り口の様子
市道の北の端にある弾薬庫跡【C】
道沿いにある弾薬庫の入り口【D】
石碑と引き込み線の計画最終地点
弾薬庫関連の施設があった範囲
文責/宇部マニアックス(山本健二)
宇部マニアックス ウェブサイト
http://ubemaniacs.main.jp
情報提供・問い合わせ
sta_vanilla@hotmail.com
※2025年08月29日に修正・更新した記事です。 お出かけの際はお店の公式サイトやSNSなどで最新の情報を確認してお出かけください。