地元探訪記 Vol.80
『千林尼の足跡を辿る』
千林尼地蔵(來迎寺)
橋のない川に困り、ぬかるんだ道に難渋する往来人を見かねて整備を行った人物の話は全国各地にみられます。しかし私利私欲を捨て広域に整備し続けた最初の人は、旧西岐波村出身の千林尼と言えるでしょう。
夫との不和から出家し、諸国を巡る六十六部の僧に出会い仏門に入りました。修行の後に千林尼は常盤池の本土手付近に庵を構え、托鉢で浄財を集めて橋や道を整備する手法を確立しました。逢坂へ移った理由は不明ですが、整備手法に村民の不満があったと推察されます。
もっとも顕著な遺構は棚井と船木山田を結ぶ石畳道です。同種の石畳が逢坂と山陽小野田市大休にわずか残っています。他に厚南など数ヵ所を整備した記録が瑞祥庵の顕彰碑にありますが、遺構は失われています。
大休石畳道
瑞松庵参道
千林尼碑
逢坂観音堂に移った後、御堂の下の山陽街道に石畳を敷いています。わずかしか残っていないのは、明治期の道路改修時に剥がされ石垣に転用されたためです。御堂の横に千林比丘尼之墓と刻まれた石塔があり、Vol.58でもお墓とお伝えしましたが、実は寄付者一覧を刻みかけた石碑と判明しました。
逢坂観音堂
石畳道
晩年、吉部田の玉泉庵に移り厚狭川の架橋に取り組みました。完成直後に橋が流されて工事請負人と争論になり、このとき負った傷と病が遠因で推定60歳の生涯を終えました。しかし千林尼の崇高な慈愛精神は、後年の郷土人に受け継がれ現代に伝わっています。
玉泉庵跡
文責/宇部マニアックス(山本健二)
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※2023年01月27日に修正・更新した記事です。 お出かけの際はお店の公式サイトやSNSなどで最新の情報を確認してお出かけください。